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山里は 冬ぞ寂しき まさりける 人目も草も かれぬと思へば
源宗于
世界のリベラル全体主義勢力が主張する「地球温暖化」なるものがあるはずだが、いつものように冬がやって来ている。「温暖化」しているのに冬が来るのも不思議なものだ。平安時代の人々も冬に寂しさを感じたようで、防寒具が不十分な時代なので生命に対する危険さえもあったのかもしれない。冬に関する和歌には、寂しさを表現する内容が多いようだ。
最近、ニッポン低国サヨク共を揶揄する内容を多く書いているが、和歌で思い出した事がある。
此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ
藤原道長
現代ひらがなにすると、
「この世をば 我が世と思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」
となる。
有名な「望月の歌」である。戦後、サヨク系教育者や文学者、歴史学者達は、これは藤原北家九条系御堂流の「栄華を誇る」驕慢な和歌である、と解説する事が多くなった。
「戦後教育」に於いては、権力を集中させた為政者を殊更批判する事が目立つ。歴史上の人物では、藤原道長、平清盛、足利義満、織田信長、徳川歴代将軍等である。百姓(一説によれば穢多)から成り上がった豊臣秀吉は、あまりサヨクの批判対象にならないから笑える。歴史上一番酷い事をした権力者かもしれないのにだ。「権力者達は悪く、一般庶民はその悪政に苦しめられた。」という図式が好んで用いられた。藤原道長は三人の娘を立后させた史上唯一の人物であるが、戦後教育に於いては、それが権力の私物化であったと教えられてきた。
だが、歴史資料や当時の社会的な習慣などを考察すると、それが単なるサヨクによる歴史改竄にも等しい主張であると気付く。当時の大納言藤原実資による日記「小右記」に、太閤藤原道長による「望月の歌」に関する記載があるが、「非常に良い歌」とあるだけで、傲慢だとか言った批判は無い。この大納言実資は公家社会一二を争う資産家で、他の公卿におもねる必要も無かったせいか、大臣などに対しても平気で批判する人物であった。一条天皇が飼い猫に「官位」を与えた事すら批判の対象としている。その人物が「非常に良い歌で返歌を作る事も難しいので、一同で唱和しよう。」と言った程だから、単にその晩の月が美しく、「この世」が「この夜」の可能性もあり、太閤道長は素晴らしい月夜を愛でただけの可能性が高い。
サヨク共は、三人の娘を立后させた事も権力の私物化と解説する。当時立后に当たっては、婚姻費用から衣装、什器、従者、女房等、全てを娘の実家が負担しなければならなかった。権力を欲しいと思っても、立后させる程の資金を手当て出来る公家は限られていた。太閤道長が婿入りした左大臣源雅信家は大変裕福で、おそらく公家社会でも最高の金持ちであった。妻の源倫子(現代サヨクの好きな夫婦別姓である。江戸時代までは当たり前の話しだが。)は、この財産を受け継いでいた。娘の立后に最も大きな影響を与えていたのは「土御門殿」こと、源倫子であって、太閤道長だけの偉業ではなかった。源倫子は太閤道長より先に「従一位」を受けている事からして、道長が譲ったとも、やはりその財力によるものとも言われている。何れにしても、平安時代の「権力」と「財力」は一体不可分の物であった。
かの有名な「紫式部」、当時は「藤式部」と呼ばれていた越後守藤原為時の女(むすめ、本名不明)も、源倫子の出したカネによって雇われており、世界的な文学作品である「源氏物語」を執筆する為の紙や筆、墨等も全て支給された物である。サヨク共が何を喚こうが、「源氏物語」は源倫子の財力が無ければ成立しなかったのである。サヨク共が楽しむ古典とて、自分達が忌み嫌う「権力者」の資金提供が無ければ、書かれる事もなかったのである。
平安時代の夜空は、現代ニッポン低国と違い、澄み渡っていた事だろう。夜空の月も誠に美しかったに違いない。その美しい月夜を愛でただけの和歌さえも権力者の批判に使うサヨクとは、一体どのような躾や教育を受けるとそうなるのであろうか?ニッポン低国の「保守」は概して低能且つ無教養が多い印象を受けるが、サヨクは高学歴で教養があったとしても、その思考回路が捻じ曲がっており、己の権利の主張のみを行う。どちらも何の役にも立たない存在だろう。
そのサヨク研究者達の
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